ポスト・パンデミック社会論

パンデミックが露呈させたケア経済の構造的課題:評価、労働条件、社会保障の再構築へ

Tags: ケア経済, 構造的課題, ポスト・パンデミック, 労働市場, 社会保障, ジェンダー

はじめに

新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、世界の様々な社会システムにおける脆弱性を露呈させました。その中でも特に注目すべき構造的課題の一つに、「ケア経済」が抱える問題があります。医療、介護、育児、教育、家事といった人間のケアに関わる活動は、社会全体の持続性と幸福にとって不可欠であるにもかかわらず、パンデミック以前からその多くが経済的に低く評価され、担い手の労働条件が十分に整備されていないという構造的な問題を抱えていました。パンデミック下では、これらのケア労働が「エッセンシャルワーク」(不可欠な仕事)としてその重要性を再認識された一方で、感染リスクの高さ、労働負荷の増大、そして変わらない低賃金といった困難が浮き彫りになりました。本稿では、パンデミックを経て露呈したケア経済の構造的課題を分析し、ポスト・パンデミック社会においてケアを社会基盤として再構築するための論点を考察します。

ケア経済とは何か:その範囲と歴史的背景

ケア経済とは、広義には人間の身体的・精神的な健康や発達、幸福を維持・促進するための活動全般を指します。これには、家庭内で行われる無償のケア(育児、介護、家事など)から、市場で行われる有償のケア(医療従事者、介護士、保育士、教師などによる労働)、さらには公共サービスとしてのケア(公的医療、福祉、教育)までが含まれます。

歴史的に見ると、多くの文化においてケア労働は主に家庭内の女性の役割とされてきました。これが近代的な市場経済の拡大と、それに伴う性別役割分業の固定化によって、有償化されたケア労働もまた、女性が多くを占める低賃金・低評価のセクターとして位置づけられる傾向が強まりました。経済学においては、ケア労働はしばしば生産性の測定が困難であると見なされたり、家庭内の無償労働としてはGDPに含まれなかったりするなど、その経済的価値が十分に認識されてこなかった経緯があります。これにより、ケアは社会の基盤であるにもかかわらず、経済政策の中心から外れがちな「構造的周辺性」に置かれてきました。

パンデミックが露呈させたケア経済の脆弱性

パンデミックは、このケア経済の構造的な脆弱性を一気に可視化しました。 第一に、ケア労働者の労働環境の過酷さが改めて浮き彫りになりました。医療従事者、介護士、保育士といったケアの専門職は、最前線で感染リスクに晒されながら、人員不足や物資不足の中で長時間労働を強いられました。にもかかわらず、彼らの多くは依然として低賃金や不安定な雇用条件に置かれており、その労働に対する社会的な評価や経済的な報酬が見合っていない現状が強く認識されました。

第二に、家庭内ケアの負担増大です。学校や保育施設の閉鎖、リモートワークの普及、高齢者施設への訪問制限などにより、育児や高齢者介護といったケアの多くが家庭内に回帰しました。この負担は、多くの場合、特に女性に集中し、ジェンダー不平等を加速させる要因となりました。また、外部の支援が断たれることで、家庭内ケアの限界や孤立も問題となりました。

第三に、ケアシステムの供給能力の限界です。パンデミックの拡大に伴い、医療機関の病床や人員が逼迫し、必要なケアが受けられない事態が発生しました。これは、平時から効率化やコスト削減が優先され、冗長性やレジリエンスが十分に確保されていなかった公共医療・公衆衛生システム、そしてそれを支えるケア人材育成・供給システム全体の構造的な問題を示しています。

ポスト・パンデミック社会における構造的課題と再構築の論点

パンデミックの経験は、ケア経済を単なる「サービス産業」や「家庭内の問題」としてではなく、社会全体の持続可能性を支える不可欠な「基盤」として捉え直す必要性を提起しました。ポスト・パンデミック社会においてケア経済が抱える構造的課題に対処し、よりレジリエントで公平なシステムを構築するためには、以下の論点を深く検討する必要があります。

  1. ケア労働の適切な評価と労働条件の改善: ケア労働が社会にもたらす経済的・社会的価値を正当に評価し、賃金や福利厚生を含む労働条件の大幅な改善が必要です。これには、公的資金の投入拡大や、ケアサービスの提供者に対する労働基準の厳格な適用などが含まれます。

  2. 社会保障制度におけるケアの位置づけ強化: 医療、介護、育児支援といったケア関連の社会保障制度を、単なる「費用」としてではなく、未来への「投資」として捉え直す必要があります。ユニバーサルなケアサービスへのアクセスを保障し、ケアの受け手・担い手の双方を支える包括的な制度設計が求められます。

  3. ケアの担い手の多様化と支援: 専門職だけでなく、家族、地域住民、ボランティアなど、多様な担い手が連携し、お互いを支援する仕組みの構築が必要です。また、ケア労働に就く人々(特に女性、移民、非正規雇用者など)が直面する複合的な困難(ジェンダー、人種、階級など)に配慮した支援策が不可欠です。

  4. 公的支出と市場化のバランス再考: ケアサービスの提供において、市場メカニズムの導入が進んできましたが、利益追求がケアの質や公平性を損なうリスクも露呈しました。公共財としてのケアの側面を重視し、質の高いケアへの普遍的なアクセスを保障するための公的責任と支出のあり方を問い直す必要があります。

  5. ケアを社会全体の責任として捉える意識改革: ケアは特定の個人や家族、専門家だけが担うべきものではなく、社会全体で支え合うべき基盤であるという意識を共有することが重要です。メディア、教育、文化といった多様なチャネルを通じて、ケアの価値を再認識し、ケア労働に対する敬意を醸成する取り組みが求められます。

結論

パンデミックは、これまで社会の基盤として見過ごされがちだったケア経済の重要性と、それが抱える構造的な脆弱性を痛烈に示しました。ポスト・パンデミック社会は、この教訓を活かし、ケア経済への適切な投資と構造改革を断行すべき時期にあります。ケア労働の評価向上、労働条件改善、社会保障制度の強化、多様な担い手の支援、そしてケアを社会全体の責任として捉える意識改革は、よりレジリエントで包摂的、かつ公平な社会を構築するための不可欠なステップとなります。これらの構造的課題に真摯に向き合うことが、パンデミックからの回復を超えた、持続可能な未来社会の構築につながるのです。