パンデミックが刻む集合的トラウマ:社会規範、信頼、そして連帯の構造的課題
パンデミックは、世界中の人々に身体的な健康リスクや経済的な困難をもたらしただけでなく、社会全体の心理にも深刻な影響を与えました。この共通の危機的体験は、個人のメンタルヘルスに影響するのみならず、社会集団としての集合的な心理状態に変容をもたらし、その後の社会のあり方に長期的な影響を及ぼす可能性が指摘されています。本稿では、この影響を「集合的トラウマ」として捉え、それがパンデミック後の社会が直面する構造的な課題とどのように関連するのかを考察します。
集合的トラウマとは
集合的トラウマとは、特定の社会集団やコミュニティ全体が共有する、深刻で圧倒的な出来事によって引き起こされる心理的・社会的な傷つきを指します。災害、戦争、テロリズム、そして今回のパンデミックのような広範な危機がこれに該当します。これは単に多くの個人が同時にトラウマを経験するというだけでなく、その出来事に対する社会的な意味づけ、集団内の相互作用の変化、文化的な記憶の形成といった側面を含みます。集合的トラウマは、集団のアイデンティティ、価値観、そして未来への展望に深く影響を及ぼす可能性があります。
パンデミックにおいては、未知のウイルスへの恐怖、感染拡大による日常の制限、愛する人との別れ、経済活動の停滞、将来の不確実性といった要素が、世界中の人々にとっての共有体験となりました。この継続的かつ広範な危機は、個人の心にストレスや不安をもたらす一方で、社会全体としての心理的な疲弊や、見えない他者への警戒感、あるいは情報の氾濫に対する不信感などを生じさせました。
集合的トラウマが社会構造に与える影響
集合的トラウマは、その社会の最も根幹的な構造、すなわち社会規範、信頼、そして連帯といった側面に変容をもたらすと考えられます。
第一に、社会規範の変容です。パンデミックを経て、マスク着用や手指消毒、物理的距離の確保といった感染対策が新しい日常の規範となりました。これはリスク回避行動の顕著な例ですが、その一方で、他者への過度な警戒心や、「自粛警察」に代表されるような相互監視、あるいは特定の集団(例:感染者、医療従事者、外国人)への差別や排除といった、社会的なストレスに起因する負の側面も顕在化しました。これらの変化は、社会の行動様式や相互関係に長期的な影響を与え、新しい規範が形成される過程で摩擦や軋轢を生む可能性があります。
第二に、信頼関係の変容です。パンデミック下では、政府や専門機関、メディア、そして隣人や友人といった様々なレベルでの信頼が試されました。情報が錯綜し、政策が頻繁に変更される中で、制度に対する信頼は揺らぎがちでした。また、感染リスクを巡る認識の違いや行動の差が、個人間の関係に緊張をもたらすこともありました。集合的トラウマは、社会の信頼資本を損なう可能性があり、これが政治的な分断の深化や、社会的な協力関係の構築を困難にするといった構造的な課題につながる可能性があります。
第三に、連帯のあり方の変化です。危機発生初期には、医療従事者への感謝や困っている人への支援といった形で一時的な連帯意識が高まる場面も見られました。しかし、パンデミックの長期化と社会経済的な負担の増大は、人々の間に疲弊をもたらし、共感疲労や自己防衛的な姿勢を強めさせました。結果として、かつての地域社会や職場、友人間のコミュニティにおける連帯意識が弱まり、個人の孤立が深まるという構造的な課題も浮上しています。
構造的課題としての認識と今後の展望
パンデミックによる集合的トラウマを単なる一時的な心理問題としてではなく、社会の基盤に関わる構造的な課題として認識することが重要です。このトラウマは、経済格差やデジタルデバイドなど既存の社会課題と複合的に作用し、特定の集団に不均衡な負担をかける可能性があります。例えば、感染拡大の最前線にいた医療従事者、経済的に困窮した人々、教育機会を奪われた子どもたち、そして人との繋がりが断たれた高齢者などは、より深刻な集合的トラウマの影響に直面しているかもしれません。
社会全体の回復力を高めるためには、これらの構造的課題に多角的な視点から取り組む必要があります。心理的なケア体制の拡充はもちろん、分断されたコミュニティの再構築、信頼回復に向けた開かれた対話、そしてリスクや不確実性に対する社会全体のレジリエンス(回復力)を高めるための制度設計が求められます。これは、パンデミック前の状態に単に戻るのではなく、集合的トラウマを経て露呈した社会の脆弱性に向き合い、より包摂的で協力的な社会を構築していくプロセスに他なりません。
集合的トラウマからの回復は、一朝一夕に成し遂げられるものではありません。それは社会全体の長期的な営みであり、個人のウェルビーイングと社会全体の健全性が密接に関わっていることを改めて認識する機会と言えるでしょう。パンデミックが刻んだ傷を乗り越え、より強靭でしなやかな社会を築くためには、集合的トラウマがもたらす構造的な課題を深く理解し、継続的な対話と実践を積み重ねていくことが不可欠です。