ポスト・パンデミック社会論

パンデミックが問い直すリスクコミュニケーション:科学、政策、市民社会の構造的課題

Tags: リスクコミュニケーション, パンデミック, 科学と社会, 政策決定, 情報リテラシー, 信頼

はじめに

パンデミックという未曽有の事態は、社会の様々な側面に大きな影響を与えましたが、その中でも特に「リスクコミュニケーション」のあり方が厳しく問い直されました。未知の感染症に関する不確実な情報、刻々と変化する状況、多様な関係者の思惑が入り混じる中で、効果的な情報伝達と合意形成の困難さが浮き彫りになったためです。本稿では、パンデミックを事例として、リスクコミュニケーションにおける構造的な課題について、科学、政策、そして市民社会という三つの側面から考察します。

リスクコミュニケーションの定義とパンデミックの特異性

リスクコミュニケーションとは、科学的なリスク評価の結果や不確実性を含む情報を、様々なステークホルダー間で共有し、相互理解を深め、適切な行動を促すプロセスを指します。環境問題、食品安全、原子力安全など、これまでも様々な分野でその重要性が認識されてきました。

しかし、パンデミックにおけるリスクは、その新規性、不確実性の高さ、予測困難性、そしてグローバルな同時進行性といった点で特異な性質を持っています。インフルエンザのような既知のリスクとは異なり、ウイルスの特性、感染経路、重症化率、有効な対策などが当初は全く不明でした。このような状況下では、科学的知見は限定的かつ暫定的であり、政策判断もその都度見直しを迫られます。こうした状況下で、迅速かつ的確なリスクコミュニケーションを行うことは極めて困難でした。

構造的課題①:科学と政策の間の断絶

パンデミック初期には、科学的知見が十分でないにもかかわらず、緊急の政策判断が求められました。この過程で、科学者コミュニティから発せられる様々な意見(コンセンサスが得られていないものも含む)が直接的に社会に伝わり、混乱を招く一因となりました。

科学の営みは本来、仮説と検証を繰り返し、徐々に確からしさを増していくプロセスです。しかし、危機時にはそのプロセスがリアルタイムで露出され、専門家間の意見の相違や不確実性の表明が、しばしば「科学が信用できない」「政府の判断がブレている」といった形で受け止められがちです。政策担当者は、不確実性を抱えた科学的助言を基に、社会・経済への影響も考慮した上で判断を下さなければなりませんが、その判断プロセスや根拠が十分に透明化されない場合、不信感を生じさせます。

また、科学的知見の伝達においても課題がありました。専門用語を多用したり、リスクを統計的にのみ伝えたりする方法では、一般市民にとって理解しにくく、感情的な反応や誤解を招くことがあります。科学と政策の間には、情報の性質、意思決定のスピード、説明責任の範囲など、構造的な違いが存在しており、このギャップを埋めるコミュニケーションの設計が不十分であったと言えます。

構造的課題②:情報環境の複雑化と市民社会

現代社会の情報環境は、インターネットやソーシャルメディアの普及により、多様な情報が瞬時に拡散する特徴を持っています。パンデミック下では、政府や専門家からの公式情報だけでなく、個人の体験談、未確認情報、さらには意図的な虚偽情報(インフォデミック)が入り乱れて流通しました。

こうした環境において、市民は情報の真偽を自ら判断し、行動を選択する必要がありますが、誰もが高度な情報リテラシーや科学リテラシーを持っているわけではありません。特に、強い不安や恐怖を感じている状況では、人は冷静な判断が難しくなり、感情に訴えかける情報や、自分の考えを補強する情報に飛びつきやすくなる傾向があります。

リスクコミュニケーションは、単なる情報提供ではなく、市民の受容性、懸念、価値観を理解し、双方向の対話を通じて信頼関係を構築することが不可欠です。しかし、パンデミック下では、一方的な呼びかけや行動制限の要請が多くなりがちで、市民一人ひとりがリスクをどう捉え、何を不安に感じているのかといった視点からの丁寧なコミュニケーションが不足していた側面があります。情報過多と不信感が結びつき、「専門家疲れ」「対策疲れ」といった現象も見られました。

構造的課題③:制度と信頼

リスクコミュニケーションの成否は、情報発信主体である政府、専門家機関、メディアなどに対する市民の信頼に大きく依存します。パンデミック下では、情報公開の遅れ、説明の一貫性の欠如、過去の政策との矛盾などが指摘され、これらの主体への信頼が揺らぐ場面がしばしば見られました。

信頼は短期的に構築できるものではなく、平時からの透明性のある活動、一貫したメッセージ発信、そして失敗を認めて改善する姿勢を通じて、時間をかけて培われるものです。非常時において、それまで十分に信頼が構築されていなかった場合、危機的な状況下でどれだけ正確な情報を発信しても、市民に受け入れられにくくなります。

また、リスクコミュニケーションの制度的な設計も問われました。危機管理体制の中で、誰が、いつ、どのような情報を、誰に対して発信するのかという明確な役割分担と、異なる主体間での連携が不可欠です。しかし、現実には、複数の省庁や専門家チームから発せられる情報が統一されていなかったり、メディアリレーションズが十分でなかったりといった課題が露呈しました。情報伝達の経路や責任体制が不明確であることは、不信感を生む構造的な要因となります。

ポスト・パンデミック社会への示唆

パンデミックは、リスクコミュニケーションにおけるこれらの構造的課題を痛切に示しました。ポスト・パンデミック社会においては、次の危機に備えるためにも、これらの課題への根本的な取り組みが求められます。

まず、科学と政策の関係性においては、不確実な科学的知見を政策にどう活かすか、そのプロセスをどう透明化するか、そして専門家の多様な意見をどう社会に伝えるかについて、新たなガバナンスの仕組みを検討する必要があります。科学者の役割は、単に知見を提供するだけでなく、不確実性を正直に伝え、社会との対話に積極的に参加することへと広がるべきでしょう。

次に、情報環境においては、市民の情報リテラシー向上支援に加え、信頼できる情報へのアクセスを容易にする仕組みづくりや、虚偽情報への効果的な対処法(ただし表現の自由とのバランスを考慮しつつ)が重要です。また、市民側も、受け取った情報を鵜呑みにせず、複数の情報源を参照し、批判的に吟味する習慣を身につけることが求められます。

そして最も重要なのは、制度と信頼の再構築です。危機管理に関わるあらゆる主体が、平時から透明性、説明責任、一貫性のある情報発信を心がけ、市民との双方向の対話を通じて信頼関係を醸成する努力を続ける必要があります。信頼は最も強固なリスクコミュニケーションの基盤であり、非常時における社会のレジリエンスを高める上で不可欠です。

パンデミックは、社会全体がリスクを共有し、共に乗り越えるためには、科学的知見に基づきながらも、人々の感情や価値観に寄り添った、丁寧で誠実なコミュニケーションがいかに重要であるかを教えてくれました。これは感染症対策に限らず、気候変動、自然災害、技術革新に伴うリスクなど、今後私たちが直面するであろう様々なリスクへの対応においても、極めて重要な視点となるでしょう。