パンデミックが問い直す人間の認知バイアス:社会的意思決定における構造的課題
はじめに:未曽有の事態と人間の認知特性
新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、世界の社会システムに多大な影響を与えました。感染拡大の予測困難性、ウイルスの性質に関する不確実性、対策の効果に関する科学的知見の変動など、私たちは常に不確実性の高い情報環境に晒されてきました。このような状況下で、人々の情報に対する向き合い方、リスクの捉え方、そしてそこから生まれる社会的な意思決定のプロセスが、パンデミックの展開そのものに深く関わっていたことが明らかになっています。
本稿では、パンデミックという非常時において顕在化した人間の認知バイアスに焦点を当て、それが個人的な行動変容から社会的なコンセンサス形成、さらには公共政策の決定に至るまで、広範な社会的意思決定プロセスにどのような構造的な影響を与えたのかを考察します。これは単に一部の非合理的な行動を批判する試みではなく、人間の基本的な認知特性が、現代社会の情報環境と相互作用することで生じる構造的な課題を理解するための試みです。
非常時における情報環境と認知バイアスの顕在化
パンデミック下の情報環境は、通常の安定した状況とは大きく異なりました。
まず、不確実性の高さが挙げられます。感染経路、重症化リスク、ワクチンの効果や安全性など、科学的な知見が絶えず更新され、時には覆される中で、確定的な情報は限られていました。次に、情報過多の状況が生じました。多様なメディアやSNSを通じて、専門家、行政、メディア、そして個人の意見が洪水のように流れ込み、真偽不明の情報(デマや誤情報)も拡散しました。
このような環境下では、人間の認知システムが持つ「バイアス」が強く影響を及ぼします。人間の脳は、限られた情報や時間の中で効率的に判断を下すために、様々なヒューリスティック(簡易的な思考プロセス)やバイアスを用います。平時であれば大きな問題とならないこれらの認知特性が、不確実で情報過多な非常時においては、判断を大きく歪め、社会的な混乱を招く構造的な要因となり得ます。
パンデミック下で観察された認知バイアスの具体例
パンデミック下で特に顕著に現れた認知バイアスには、以下のようなものがあります。
- 確証バイアス(Confirmation Bias): 自身の既存の信念や意見を裏付ける情報ばかりを優先的に収集・解釈し、反証する情報を軽視する傾向です。「マスクは無意味だ」「ワクチンは危険だ」といった特定の信念を持つ人が、それを補強する情報ばかりを探し、他の情報を無視するといった形で現れました。これが情報環境の分断を深め、社会的な対話を困難にしました。
- 利用可能性ヒューリスティック(Availability Heuristic): 容易に思い出せる情報や印象的な情報(例:重症者のセンセーショナルな報道、身近な感染者の話)に基づいて、リスクの確率や重要性を過大評価または過小評価する傾向です。これにより、実際の統計データに基づかない過剰な恐怖や油断が生じました。
- 感情ヒューリスティック(Affect Heuristic): 情報に対する感情的な反応(恐怖、嫌悪、安心など)が、リスク評価や意思決定を直接的に左右する傾向です。パンデミックに対する強い恐怖心が、非科学的な予防策や極端な行動に駆り立てる一方、リスクへの慣れや疲弊感が、必要な対策の軽視につながることもありました。
- 集団思考(Groupthink): 所属する集団(友人、家族、オンラインコミュニティなど)の意見やムードに同調し、批判的な検討を怠る傾向です。特定の集団内でデマや陰謀論が共有され、それが集団内での「真実」として強化されていく現象などが観察されました。
- アンカリング・バイアス(Anchoring Bias):最初に提示された情報(アンカー)に強く影響され、その後の判断が歪められる傾向です。最初の感染者数や致死率の報道が、その後のリスク認識に長く影響を与えるといった形で現れました。
これらの認知バイアスは単独で機能するだけでなく、相互に影響し合い、情報伝達や意思決定の複雑なダイナミクスを生み出しました。
認知バイアスが社会的意思決定に与える構造的影響
個人の認知バイアスは、集合体としての社会の意思決定プロセス全体に構造的な影響を与えます。
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情報伝達と世論形成の歪み: 確証バイアスや利用可能性ヒューリスティックは、デマや誤情報が特定の集団やコミュニティ内で迅速に拡散し、定着する構造を生み出します。SNSなどのアルゴリズムは、ユーザーの関心が高い情報(多くの場合、既存の信念を強化する情報)を優先的に表示するため、この傾向はさらに増幅されます。これにより、科学的に確立された情報よりも、感情や個人的信念に訴えかける情報が優勢になる可能性があり、社会全体でのリスク認識や共通理解の形成が困難になります。
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政策決定プロセスへの影響: 公共政策の決定は、科学的エビデンス、専門家の意見、世論、経済的要因など、多様な要素を考慮して行われます。しかし、政策担当者自身も認知バイアスの影響を受け得ます。また、上記の世論形成の歪みが、政策決定者に不当なプレッシャーを与えたり、エビデンスよりも感情的な訴えに基づく政策が採用されたりするリスクを高めます。例えば、短期的な感情的反応に基づく強硬な対策が、長期的な視点や科学的根拠を欠いたまま実施されるといった事態が生じえます。
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リスクコミュニケーションの難しさ: 政府や専門家からのリスクに関する情報伝達は、受け手側の認知バイアスによってフィルターされ、意図しない形で解釈されることがあります。不確実性の高い情報を正確に伝えることは困難を伴いますが、人間の認知特性を理解しないまま一方的な情報提供を行っても、信頼を得られず、かえって不信感や反発を招く構造が露呈しました。
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社会的分断の深化: 異なる認知バイアスや情報源に基づいて形成された信念は、対立する集団間での相互理解を阻害し、社会的分断を深めます。ワクチン接種の是非、マスク着用の必要性などを巡る激しい対立は、単なる意見の相違ではなく、異なる情報環境と認知プロセスの結果として生じた構造的な分断の一側面であると言えます。
ポスト・パンデミック社会における課題と示唆
パンデミックは、人間の認知特性が社会のレジリエンスにいかに深く関わっているかという構造的な課題を浮き彫りにしました。ポスト・パンデミック社会においては、この認知の側面を無視することはできません。
今後の課題としては、以下の点が挙げられます。
- 情報リテラシーの向上: 個人が多様な情報源を批判的に評価し、自身の認知バイアスを自覚するための教育や啓発の重要性が再認識されました。
- リスクコミュニケーションの改善: 不確実性を正直に認めつつ、分かりやすく、かつ信頼を損なわない形での情報発信技術の確立が必要です。一方的な伝達ではなく、市民との双方向の対話や共創のプロセスを重視するアプローチが求められます。
- 意思決定プロセスの透明化とレジリエンス向上: 特に非常時における公共政策の決定プロセスにおいて、どのような情報に基づいて、どのような専門的知見が考慮され、どのような議論を経て決定されたのかを可能な限り透明化することが、社会の信頼を得る上で不可欠です。また、多様な視点を取り入れ、単一の認知バイアスに囚われない集合的な意思決定メカニズムを構築することも重要です。
- 「認知レジリエンス」の構築: 不確実性が常態化する現代において、個人、組織、社会全体が、自身の認知バイアスを理解し、情報環境の変化に適応し、感情に流されすぎずに建設的な判断を下す能力、すなわち「認知レジリエンス」を高めることが、新たな危機への備えとなります。
パンデミックがもたらした経験は、人間の認知特性が社会システム全体の脆さや強靭さに関わる構造的な要素であることを示唆しています。ポスト・パンデミック社会をより良いものとして再構築するためには、この認知の側面から生じる課題を深く理解し、その解決に向けた多角的な取り組みを進める必要があります。