ポスト・パンデミック社会の知識構造:専門知と非専門知のせめぎ合いと信頼の構造的課題
はじめに
新型コロナウイルスのパンデミックは、私たちの社会に物理的な距離だけでなく、情報環境と知識の受容に関しても大きな変容をもたらしました。特に顕著となったのは、専門知(科学、医療、公衆衛生などの知見)と非専門知(個人の経験、感覚、SNS上の情報、集合的な意見など)の間のせめぎ合いであり、これは社会全体の信頼構造に構造的な課題を投げかけるものとなりました。
パンデミックという未曽有の危機において、科学的根拠に基づく専門知は感染拡大を抑制し、治療法やワクチンを開発する上で不可欠な羅針盤となることが期待されました。しかし、同時に、不確実性の高い状況下での科学的知見の進化や変化、あるいは専門家間での意見の相違は、社会における専門知への信頼を揺るがす要因ともなり得ました。一方、SNSなどを通じて誰もが情報を発信・受信できる環境は、多様な非専門知を流通させ、共感や連帯を生む一方で、根拠不明な情報やデマ、陰謀論の拡散という深刻な問題も引き起こしました。
本稿では、パンデミックを経て顕在化したこのような情報環境の変化と、それに関連する専門知・非専門知の関係性、そして社会の信頼構造における構造的課題について考察します。
パンデミック下における情報環境の特異性
パンデミック期は、社会全体が極めて高い不確実性に直面した期間でした。新しい病原体、その伝播経路、重症化リスク、予防策、治療法に関する知見は日々更新され、時には以前の常識が覆されることもありました。このような状況は、従来の「確固たる専門知」に対する社会の認識に変化を迫りました。
情報伝達の経路も多様化・高速化しました。従来のマスメディアに加え、SNSは個人間の情報交換や意見表明の場として急速に影響力を増しました。これにより、専門家や政府機関が発信する公式情報だけでなく、個人の経験談、憶測、未確認情報、さらには意図的な偽情報(フェイクニュース)や陰謀論が瞬く間に拡散する「インフォデミック」と呼ばれる現象が発生しました。
この情報過多の環境下では、どの情報を信頼すべきか、何が事実に基づいているのかを判断することが極めて困難になります。情報の受け手は、自身のリテラシーや、特定の情報源に対する既存の信頼度、あるいは自身の価値観や所属するコミュニティの傾向に大きく影響されながら、情報の取捨選択を行わざるを得ませんでした。
専門知への信頼と非専門知の台頭
パンデミックの初期段階において、多くの人々は未知の脅威に対抗するため、科学者や医療専門家といった専門家の知見に依拠しようとしました。しかし、科学は不確実性を内包し、絶えず進化するプロセスであり、当初の知見が後に修正されたり、異なる専門家間で意見が分かれたりすることは自然なことです。にもかかわらず、社会はしばしば科学に即座かつ絶対的な正解を求める傾向があり、このような科学の性質が十分に理解されないまま情報が提示された場合、混乱や不信感を生むことにつながりました。
また、公衆衛生上の対策は、科学的知見だけでなく、政治的判断、経済的影響、社会的受容性など、多様な要素を考慮して決定されます。科学的推奨と実際の政策との間の齟齬は、専門知が政治的に利用されているのではないか、あるいは専門家が隠し事をしているのではないかといった疑念を生み、専門知そのものへの信頼性を損なわせる要因となる可能性がありました。
このような状況下で、人々はより身近な情報源、すなわち友人や家族の意見、SNS上の共感できる投稿、特定のコミュニティ内での集合的な経験などに依拠する傾向を強めました。これは、非専門知が専門知に代わる、あるいは専門知に対抗する「もう一つの真実」として台頭する現象を招きました。特に、専門知や権威への不信感を抱く人々は、自身の信念や感情に合致する非専門知を強く信奉し、専門知に基づく情報との間に大きな隔たりを生じさせることがありました。これは、社会における知識の断片化、あるいは「知識の分極化」と呼べる状況を引き起こしましたと言えます。
信頼構造の変容と構造的課題
専門知と非専門知のせめぎ合いは、社会の基本的な信頼構造に影響を与えました。政府機関、科学界、マスメディアといった、かつては社会の信頼の柱と考えられていた制度に対する信頼が揺らぎ、一方で、個人の経験談や所属コミュニティ内の情報に対する信頼が増加する傾向が見られました。
この信頼の変容は、パンデミック対策における社会的なコンセンサス形成を困難にし、対策への協力を妨げる要因ともなりました。例えば、ワクチンの安全性や有効性に関する科学的知見が示されても、特定のコミュニティ内で広がる非専門的な情報や不信感が、人々のワクチン接種行動に強く影響を及ぼすといった現象が見られました。
ポスト・パンデミック社会において、この知識構造と信頼の課題は引き続き重要な問題となります。複雑化する社会問題や新たな危機(気候変動、AI、次のパンデミックなど)に対処するためには、科学的知見に基づいた合理的判断と、社会全体での協力が必要です。しかし、専門知と非専門知の間の溝が深まり、情報源に対する信頼が分断された状態では、効果的な政策実施や社会的な合意形成が極めて困難になります。
構造的な課題として、以下のような点が挙げられます。
- 複雑な情報環境下での情報リテラシーの格差: 氾濫する情報の中から信頼できる情報を選び取り、批判的に分析する能力の必要性が増していますが、この能力には個人間や世代間で大きな格差があります。
- 専門知と社会との間のコミュニケーション不足: 科学や専門知が持つ不確実性や進化のプロセスを、社会に対して適切に伝え、理解を得るための構造や方法論が十分に確立されていません。
- 信頼の分断と社会的分極化: 特定の情報源やコミュニティに閉じた情報空間(エコーチェンバー)が形成され、異なる視点や知識体系を持つ人々との間の対話や理解が困難になっています。これは社会全体の統合を阻害する要因となります。
- 非専門知の建設的な活用: 個人の経験や集合知といった非専門知は、専門知だけでは捉えきれない社会の実情やニーズを反映する可能性を秘めていますが、これをデマや誤情報と区別し、社会的意思決定にどのように建設的に統合していくかという課題があります。
まとめ
パンデミックは、現代社会が情報と知識、そして信頼に関して抱える構造的な脆弱性を露呈させました。専門知と非専門知の間のせめぎ合い、そしてそれに伴う信頼構造の変容は、ポスト・パンデミック社会が直面する極めて重要な課題です。
これらの課題に効果的に対処するためには、単に偽情報を排除するだけでなく、情報リテラシー教育の強化、専門知と社会との間のコミュニケーションチャネルの改善、多様な知識体系が共存し互いに学び合う場の創出、そして何よりも分断された信頼をどのように修復・再構築していくかという根本的な問いに向き合う必要があります。これらの構造的課題への取り組みは、ポスト・パンデミック社会におけるレジリエントで統合された社会を築く上で不可欠となるでしょう。